「えー 本堂がないんですかー ?」
先日、遠方からお参りに来られた方の第一声でした。
「申し訳ありません。前の建物が古くなって少し傾いてきたの
で建て替えの準備中なんです。」
「そうですか。古い本堂を一度見てみたかったなあ」
そんな方々のために
以前の本堂をご覧いただきましょう。
ようこそ和泉国分寺へお参り下さいました。この本堂は、およそ築300年と考えられています。
昭和9年8月、国分寺の住職となられた隆道和尚は今から80年前の国分寺の様子を次のように書き残されています。
「 過去数十年にわたり無住(住職がいない)なりし当寺は、言語を絶する荒廃ぶり
にて屋根は抜け破れて走雲を入れ、壁は落ちて童等の出入りを欲しいままにし戸
障子は損じてさえぎる場所無く・・・」と。
以来、歴代住職は檀家皆さんの協力を得て、抜け破れたわら屋根にトタンをかぶせ、壁や床を直して人が住めるよう修復し、ご本尊さまへのお勤めを続けてきました。
しかし近年、堂内の柱等の傷みや傾き、建物の老朽化が一層深刻になり、このままでは仏様方に万一のことがあっては大変と考え、檀家の皆さんと相談して建て替えを決断しました。
この写真は、旧本堂内陣(仏様を祀っているところ)です。
中央は薬師如来、向かって左は不動明王、右は弘法大師さまです。
現在、これらの仏様方は仮本堂でお祀りし毎朝お勤めを続けています。
9月5日(土)午前10時より地鎮法会を行いました。
地鎮祭は、一般的には神式で行いますが、お寺の地鎮祭ですから仏式で地鎮のお勤めをしました。
法会には、建設委員会の役員や委員さん、工務店の皆さんが22人参列され、法会の始めに檀家を代表して責任役員さんが次のような願文(がんもん)を読みました。
「 我が国分寺は千二百年の歴史を持つ名刹であり八十有余軒の檀家の心のよりどこ
ろです。今、檀家一同、この有り難きご縁を子や孫、さらに永く未来につながんが
為、老朽化した本堂の再建を決断し地鎮の法会を開きます。この土地が汚れなく清
らかになり、新本堂が無事落成されますように。」
「国分寺」と呼ばれるお寺は全国に68か寺あります。
本堂などの建物はすでになく伽藍跡だけが残っているところも何か寺かあります。
「国分寺」のほとんどは、奈良時代 聖武天皇の勅願によって建てられましたが、和泉国分寺はそれより百年ほど後になって造られました。
というのも聖武天皇の時代、現在の大阪は、摂津と河内の二国でした。
和泉地方は当時、河内の国の一部でしたので「河内の国分寺(柏原市)」がこの地方の国分寺でした。
しかしその後、河内の国が二つに分かれ和泉の国が誕生しました。そして、それに伴ってそれまであった和泉の国の代表的なお寺である「安楽寺」というお寺を「国分寺」としました。
これが「和泉国分寺」のはじまりで、今からおよそ千二百年前のことでした。
和泉国分寺がその後どんな変遷をたどって来たのか、古文書等でその様子をちょっと見てみましょう。
839年(承和6年)5月 「和泉国安楽寺を以て国分寺とす」という詔勅が出
る。(続日本後記)
983年(永観元年) 「和泉国分寺の雅真僧正が高野山の法印(住職の
最高位)になる」(高野春秋編年輯録)
1301年(正安3年) 「和泉国分寺の乗阿僧正が高野山の法印になる」
1337年(延元2年) 「国分寺合戦・国分寺前合戦・宮里合戦」など南北
朝合戦が長期にわたって行われる。(和田文書)
1605年(慶長10年) 「現在地に伽藍跡が描かれ中央に本堂が一宇、西側 に光明皇后廟が、南東に瀧薬師光明出生の記入あ
り」(和泉国図会)
1706年(寛政8年) 「国分寺 国分村にあり」(和泉名所図会・・光明
皇后誕生地伝説の記載あり)